きよい教会
激しい論争があって後、ペテロが立ち上がって言った。「兄弟たち。ご存じのとおり、神は初めのころ、あなたがたの間で事をお決めになり、異邦人が私の口から福音のことばを聞いて信じるようにされたのです。
そして、人の心の中を知っておられる神は、私たちに与えられたと同じように異邦人にも聖霊を与えて、彼らのためにあかしをし、私たちと彼らとに何の差別もつけず、彼らの心を信仰によってきよめてくださったのです。 使徒の働き15:7〜9
パウロの第1回伝道旅行は豊かな実を結んで終りました。パウロとバルナバを通して多くの異邦人が福音を聞き、救いの中に入れられたのです。ところがある人々がユダヤからアンテオケに下って来て、異邦人から救われた兄弟たちに、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と教え始めたのです。こうしてパウロやバルナバと彼らの間に激しい対立と論争が生じました。そこで二人と共に何人かの仲間たちが、この問題について使徒たちや長老たちと話し合うために、エルサレムに上ることになりました。
パウロたちは、エルサレムの教会で、神が彼らを用いて行なわれた働きについてみな報告しました。しかし、パリサイ派の者で信者になった人々が「異邦人にも割礼を受けさせ、また、モーセの律法を守ることを命じるべきである」と主張しました(5節)。そこで使徒たちと長老たちは、集まってこの問題を討議しました。エルサレム会議です。彼らの間に激しい論争があった後、ペテロがこう結論づけました。「教会が始まった頃から、神は異邦人を顧みて、彼らが私の口から福音のことばを聞いて、信じるようにされたのです。また、私たちに与えられた聖霊を彼らにも与えて、そのことのあかしをされました。こうして私たちと彼らとの間に何の差別もされずに、彼らの心を信仰によってきよめてくださったのです。」(7-9節)このことは非常に重要な事実です。異邦人もユダヤ人も全く同じ福音を聞いて、救われるからです。そして、「私たちが主イエスの恵みによって救われたことを私たちは信じますが、あの人たちもそうなのです」(11節)とペテロは締めくくりました。
きよめは私たちの切なる願いです。きよい方と結ばれていく。一つとされていくには、条件を必要とするのが、私たち人間のやり方です。ただでは済まされないということです。それが私たちが、がんばったらほめられ、怠けたら責められる世に生きる、逃れられない条件付の救いの定義の中にがんじがらめになっている姿です。立派に、真面目に生きてきた人ほど、その条件付の救いの中にとらわれて生きます。しかし、信仰によって救いを受けました。条件はただ一つ、イエスキリストの十字架の救いを信じる信仰によって救われるという、決して誰にも変えることのできない定義です。そして信じたものに与えられる、キリストによる聖霊と火のバプテスマです。信じるものに与えられた、聖霊と火のバプテスマは彼らの心を信仰によってきよめてくださったのです。
ペテロは、彼の話しの中でパリサイ人たちに特にわかってほしいことを語りました。それはユダヤ人たちが、父祖であるアブラハムから始まって今日まで、だれひとり負いきれなかったくびきを、異邦人の弟子たちの首にかけて、神を試みようとする過ちです。主はモーセの律法をユダヤ人たちに与えて、それを守るように命令しましたが、彼らが守り行なえなかったことは先刻ご承知でした。そのままではすべてのユダヤ人は滅びてしまうことになってしまいます。そこで旧約時代には、罪のためのいけにえによって彼らの罪は赦されました。しかし、完全な罪の赦しを与えるためにイエス・キリストがこの世に来てくださり、十字架にかかってよみがえり、救いの道を開いてくださったのです。こうしてだれでも行ないによってではなく、信仰によって救われる道が開けたのです。だからこそ、 異邦人からクリスチャンになった人々に割礼を受けさせることは、みこころに反することなのです。自分でこのくびきを負う歩みを再び始めてはならず、人に負わせてはなりません。火は喜びと、痛みを持って私たちの心を焼き尽くしてくださいました。イエスさまは、「肉は何の益ももたらしません。(ヨハネ6:63)」 と言われました。ですから、この肉に死に、御霊によって生きるというのが、それぞれのクリスチャンにとっての課題なのです。今まで誇りに思っていたこと、 大切にしてきたことであればあるほど、この肉に死ぬのが難しくなります。ここでは、もとパリサイ派の信者たちが、律法に対して死にきれていなかったのです。私たちは今、恵みの中に生かされています。ただ恵みです。

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