『語学教育の本質について』
語学教育は、その背景にある文化との関連付けで教えなければならないことは周知のとおりである。しかし、国内はもとより、海外で教鞭を執る日本語教師の中には、教育・文化・躾を混同した捉え方により日本語を指導している人が少なくない。
日本人の日本語教師が自国の言語を外国人に教授する際に、ややもすれば陥りやすい傾向がみられる。それは、日本語教育を科学的な意味での語学教育(language education)とみないで、言葉遣い、習慣、礼儀作法、国民性、その他の価値観までも全部ひっくるめた意味での「日本語の話し方と躾け教室」にしてしまうことである。
日本において、すべて習い事は、「way of life」 であると、「菊と刀」の著者が指摘している。しかし、このような教え方、習い方が、果たして外国人に適するかどうかは、いささか疑問の残るところである。
日本人が習いごとをする時の師弟の関係や、信仰に近い情緒的縦社会関係を、対外国人への語学教育に応用することは、無謀ともいえることである。
一歩しりぞいて、日本人の語学的訓練と習得の実体を省みると、まず私たち日本人が語学的に優れた民族であるとは、残念ながら言えないであろう。十数年間もの長き期間にわたり英語を学んでもみのりが少いことは、TOEIC等の語学検定試験による「国別得点」の国際比較を見て、自明であり実感でもある。
英語に関する本や教材が飛ぶように売れても、大学で学び外国旅行をしてきても、国際会議で堂々と議論を闘わすことができず、涙をのんで三つのS (smile, sleep, silence) を墨守せざるを得ないという実情に変わりはないのである。
私たち日本人は、ある意味で、language fools (語学バカ)なのであろうか。 しかし、この語学バカ達が、語学の教師として、外国人、特に、2〜3ヶ国の外国語を操れる外国人生徒を前にして教壇に立たねばならないとすれば、問題を放っておくわけにはゆかないだろう。つまり、対外国人への教え方に問題があるのである。
ところで、私が日本語教師を目指したときに、日本語教師養成講座で学ぶ目的は、いわゆる手ほどき的意味での「教え方を教わる」ことではなかった。厳密に言うと、「外国人に語学的訓練を課すことができる本物の訓練師(トレーナー)」 を目指したのである。いわゆる、日本語の教育者を目指してはいなかったのである。あくまでもトレーナーであり、研究者であり続けたいと願っている。
日本語の指導者として教壇に立つとき、私たちが生来の日本人であるということや、日本語が自由に喋れるという一種の特権を楯に、日本人の言葉遣い、挨拶の作法、国民性、習慣、義理人情の一切を含めた国民的文化的遺産を、知識として切り売りするだけであれば、これはただ日本語のセールスに過ぎないことになる。
日本語教師が、レッスン時問のほとんどを、レクチャー・スタイルで、話し方、書き方、文法、慣用表現、丁寧体、作法、その他に費やして、生徒のプラクティスを忘れたとすると、これは、言葉の躾であって、語学の訓練ではないのである。
数十分の授業はただの一方通行に終わり、学習者の不満は、つのるだけとなろう。なぜなら、語学の目的である「ことばによるコミュニケーション」が、授業それ自体の中で実践されていないからである。歌を覚えさせるのに、ただ聴かせたり、音符を記録させるだけでは、いつまでたっても歌えないであろう。
語学教育の目的は automatic reproduction であり、学習者が自由に自分の考えを表現できるように訓練することであって、食事のときに「いただきます」や、家を出るときに「行って参ります」と一言いわせなければならい訳ではないのである。
つまり、日本語教師として外国人には、日本人のように思考し行動しない自由を認めることが、重要である。
日本語の指導が日本的メンタリティーへの同化を強制するようになってはならないと考える。ただ日本語を通して、国際的な交流を導く助けになればいいのではないだろうか。ここで日本人教師に要求されているのは、他国民のアイデンティティヘの尊敬であり、他文化を容認し共生する心である。

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