悲しみを知る前に愛を知った
死を知る前に生を知った
切り離される前に包まれる事を知った
漂う前に結ばれる事を知った
立ち止まる前に歩み出す事を知った
目覚める前に夢見る事を知った
探す前にそこにある事を知った
引き離す前に抱き寄せる事を知った
拒絶の前に許容を知った
踏みつける前に育む事を知った
背を丸める前に羽ばたく事を知った
閉ざす前に見つめることを知った
争う前に涙を知った
思い出せばいいことだよ
元通りになればいいこと
すべてがうまくいく
きっと
マーク・ケイ
前々回の「自立と父の死」以降の人生を振り返りたいと思う。
父親が死んだならば、僕は生きてはいけないんだから、自ずと死を選択しなければならないと、あれほど覚悟を決めていたのに、社会の隙間を飄々と装うが如く、日々をやり過ごして行った。
それを助けたのは、父が物乞いまでして僕を食べさせたという、あの紛れもない事実、10日近くも父子が社会から隔絶された狭い部屋に閉じ篭って味わった餓死寸前の空腹と絶望・・・それを乗り越えたあの父の行動に奮起して、長き引きこもりの生活から脱却し、下界へ降りて社会との接点を見出した・・・あの出来事に他ならない。
引きこもりのまま、父を亡くしていたらと思うと、今考えても恐ろしい。きっと父の遺体の側で僕も燃え尽きる前の蝋燭を”フッ”と吹き消す様に絶命していたに違いない。
そして父の帰りをひたすら待ち、電気を停められた薄暗い部屋で心細く背中を丸めていた僕に、一筋の光明を与え続けてくれた音楽。引きこもりの最中、僕の心の内宇宙を色とりどりの音のシャワーで満たし、浄めてくれた音楽。「絶対ロック・スターになって、こんな生活一変させてやるんだ、馬鹿にした奴らを見返してやるんだ」そう思わせてくれた音楽、そしてアーティストへの信頼とリスペクトが、僕を自然に音楽へと向かわせた。そして夢にまでみたバンド活動は、一歩を踏み出せば、既成事実さえ作ってしまえば、人は集まり、背中を押され、自分の望むものを引き寄せるという事実をも知った。そしてこれらの体験は父の死を乗り越える為、父のいない世界をやり過ごして行く為に十分に僕を支えてくれるものだ。
引きこもりの最中(さなか)ではなく、僕がこうして自立の道を辿ってから、あの世へと旅立ったのは、きっと父の最後の僕への愛情表現であり、子を思うある種の執念であり、ギフトであったのだろう。
こうして順調に父のいない世界を、たどたどしくも歩み出した僕であったが、僕の人生に付いて廻る波瀾万丈さは、なかなかすんなりとは僕を解放してはくれない。
働いていたアパレルのショップが閉店となったのを機に、半年の無職期間を何とか食い繋いで、IT系の大手企業へ派遣社員として滑り込む事に成功した。バンド活動をし、またアパレル関係に勤めていたものだから、耳にはピアスをじゃらじゃら・・・髪は腰まで伸び、スパイラル・・・面接の前日に長い髪を覚悟を決めてバッサリと切り、ピアスも全部外して挑んで合格だった。(ご飯を食べて行く為に・・・)しかし、そうした装飾を除いても僕はどこか異質な部外者であることは明白だった様で、会社では「きっと、あいつは3日で辞める」と噂されていたそうだ。
しかし意外とやってみると水にあっていたようで、目にするものは新鮮で刺激的で、僕はその環境を楽しんでいた。一週間が過ぎ、一ヶ月が過ぎる頃には周囲の目は変わって行った。始業時間の一時間前には出勤し、掃除をした。恐らく中学生からの生活の上で、年上の男性、つまり中年くらいの男性は、非常に威圧的に感じて、最も嫌悪して来た社会や世間というものの「権化」と捉えていたので、苦手意識があったのだけど、こういう会社にいると周囲はほぼ全員が「権化」な訳で、これには慣れて行かざるを得なかったが、幸いにも温かい人ばかりで随分とお世話になったし、可愛がってもらえたし、多くの事を学ばせてもらった。またそれに応えたいと与えられた仕事は、与えられた以上にこなしたし、それによって評価もされた。自分は社会に対応出来るのだ、やれば出来るのだという感慨を得られたのは幸いなことだった。(生まれて初めて賞状と金一封を貰ったのもこの会社だったな)
しかし、こうした順調さは徐々に壊れて行く。
この会社はM社とA社の共同出資だったが、某大手印刷会社のT社がほとんどの株を買収し、そこから会社の体制が大きく変わって行った。元々M社も A社も終身雇用が原則で、働く側も会社に忠実に、そして会社も末端の社員にまで気持ちの行き届いた家族的な社風を持ち合わせていた。T社は真逆で、実力主義、成果主義であり、才能のあるものは年齢に関わらず昇進させ、重要なポストに就かせ、必要のない者、会社へ貢献しない者は、次々と切り捨てて行くというアイデンティティに支配されていた。
今となっては、リーマンショック以来の世界的な不況の中で、そうした思考が何かを狂わせ、日本人の持つ善き精神や風土を崩壊させて行ったのだと認識されるのだけど、当時はその実力主義は、まるで疑いの余地のない絶対神の様に、崇められ流布されて行った。
そんなこんなで信頼していた多くの人は、異動させられたり、辞めさせられたりした。僕を評価していた上司や同僚が次々といなくなって、風当たりが強くなり、仕事へ向かう気力も削がれて行った。そして何年もの後輩が直属の上司となり、行き場を失って行く。この頃から、帯状疱疹を患ったり、パニック発作の症状が出始めたのだった。
まず通勤電車を待っているホームで列に並んでいると、突然強い動悸がして来て、それを意識すればするほど、卒倒しそうな感覚となり、何と自然と足が動いて線路の方に歩み出すのだ。それをこらえようとすると、その場に座り込みそうになるほど、腰と足に力が入らなくなる。
また会社でのミーティングで発言を求められると、動悸がして口籠り、声は裏返り、それを悟られまいとすると、余計にろれつが廻らなくなる。毎日ミーティング前にはトイレに籠って呼吸を整えていたものだ。こんな風だから、翌日の朝が来るのが怖くて、怖くて眠れない。目覚めて朝になっているのが耐えられないから、じっと時計を見て時間が進まない様に祈るのだ。そんな毎日だからろくに睡眠も取れなくなり、会社では倦怠感で一杯の状態。
体制が変わる前に、何度も社員への登用をオファーされていたし、そうした方が社内でもより重要な仕事に携われるし、勿論給料もいい。安定するのは目に見えていたが、当時は仕事をする傍ら、音楽活動を精力的にやっていたので、仕事に時間を取られてしまうと音楽活動が出来なくなる恐れがあった。派遣社員だからという理由で免除されるような事も幾つかあったからだ。丁度体制が変わって、僕が精神的に酷く疲弊していた頃、再び正社員へのオファーが上司からあった。しかし、こうした状態でさらに責任の重い仕事をこなすことは無理だと感じたし、正直限界が来ていた。その席で僕は「辞めます」と伝えた。
8年半も働いて来た職場を去るのは辛いけれど、明日が来るのが怖いと感じる毎日の生活は生きている心地がしなかった。「嫌なことは、頑張らなくていいんだ」僕は自分にそう言い聞かせた。僕を引き止めてくれるかもしれない多くの人は既に異動になっていたりしたので、辞め際は、こんなにあっさりかと思う程に寂しく孤独なもので、事務的に終わった感じだ。
労いの言葉さえ、周囲からは聞かれなかったし、送別会すら開かれなかった。丁度、僕が辞める頃に新人が入って来て、その歓迎会があったのだが、同席していた僕には一言もなかった。それほどクールでドライな職場に成り果てていた。
やっとのことで解放されたのはいいが、大した貯金が在る訳でもない。会社在職時からライター業をかじっていたこともあって、当面は求職活動とライターとしての活動を同時進行でやって行く事にした。しかし、この求職活動で、どれだけ自分の心が痛めつけられ虚弱になっているかが露呈した。まず面接の予約を入れる電話が出来ないのだ。電話を入れる時点で携帯電話を持つ手は震え、相手の声が聞こえて来ようものなら動悸がマックスに達して気を失いそうになる。さらに、コンビニなどに行ってお金を払う時にまで手は震え、店員に話しかけられようものなら、混乱し、また声が裏返るか、震える。これでは日常生活も出来はしない。
求職活動はひとまず諦め、ライターとしての活動に活路を見出そうとした。
音楽雑誌でアーティストのインタビューやCDレビューを書いたり、ムックや書籍の企画や執筆に携わったり、雑誌やWEB上でコラムを発表したり、辞典の監修という仕事までこなした。
ライターという仕事は憧れられたり、知的でカッコいいと思われがちだけど、ライバルが多く、余程の専門分野とフットワークの軽さと、営業力とコミュニケーションの巧みさが要求され、常に研ぎすました感覚でいなければならないし、何よりも地方にいては、仕事のバリエーションも限られてしまうし、ギャラの単価も低い。今日原稿を書き終えても、雑誌掲載は数ヶ月後、ギャラが振り込まれるのは、さらに掲載の一ヶ月後や二ヶ月後なのだから、収入の見通しが立たないし毎日が綱渡りだ。
しばらくして、ライターとしてだけの収入に不安を感じ始め、半ばやけっぱちである仕事に応募し働く事になったが、やはり対人的な仕事はパニックの症状を悪化させるだけで、すぐに退職をしなければならなかった。
そしてこれと同時に、もう一つショックな出来事が起きるのだった。当時付き合っていた彼女は父を亡くした失意の僕を支え、10年に渡ってまるで夫婦同然の様に連れ添った関係だった。会社を退職する時も「それで心が癒えればと」僕の意志に同意してくれた。「辛いことがあったら何でも言って欲しい」その言葉を信じていた。バイト的に始めたその仕事もすぐに辞めてしまい、その事を彼女に伝えたのはクリスマス・イヴの夜、メールでだった。「もう、僕は無理だ。弱い男だと思うかもしれないけど、僕は耐えられない、辞める・・・」そう書いた。
すると、その日から彼女に連絡がつかなくなった。携帯に電話しても出ない、実家に電話しても、不在だと言われる、そして実家を訪ねれば会う気はないと追い返される。隣にいて当たり前の存在だった彼女が一言のメールによって遠くに行ってしまった事への自責と後悔と失意の念が渦巻き、消えて無くなりたい気分だった。街を歩けば、飛び降りるに適当なビルを探してしまう、そんな日々がしばらく続いた。
連絡がつかなくなってから、2週間程してようやく携帯電話に出た。「もしもし・・・」2週間振りに聞く声だ。彼女はこう言った。「同じ船に乗って沈みたくない」「貴方の心配をしてあげたいけど、自分の心配もしなければならない、私にはこれ以上どうすることも出来ない」・・・呆然として自然に涙が溢れて二人して泣いた。
それから何度か会ったが、お揃いの指輪は彼女の指から消え、言葉尻は冷たくなり、駅の改札口で見送り手を振ると、彼女は振り返らずにさっさと家路を急ぐだけだった。その後ろ姿が僕に決別を物語っていた。お互いに振り返って手を振り合っていた輝かしい時間はもう戻らないと悟ったのだ。
10年連れ添った彼女を失う痛手も大きなものだったが、それと同じくらい苦しかったのは彼女のご両親との関係さえも途切れることだった。母親とは 13歳で生き別れ、唯一の肉親である父親も失った僕は、目上の甘える存在もいないし、時には厳しく、時には温かく見守ってくれる存在も皆無だ。そんな僕を、いつも笑顔で迎え入れてくれ、貴方は痩せているからとたくさんのご馳走をいつも振る舞ってくれ、食卓を囲みながら賑やかに冗談を言いながら語り合ったものだし、いろんなところに連れて行ってもらった。自分が家族の一員になれた気がして、とても幸福と安堵を感じていた。僕の人生にはなかったものが、そこにはあった。家族、家庭という、食卓を囲める、揺るぎない存在がそこに在る事。
そして僕は彼女と共に、それをも失ったのだ。
ただでさえも、日常生活を送るのでやっとだった状況が、唯一の支えを失ったことでさらに混沌として来る。そして次に働き始めた場所でも問題が起こるのだった。
何とか歯を食いしばって、生きること、食べて行くことに徹しようと必死だった。とにかく働かねばとある仕事に就いた。そこには定年間際の社員がいたが、若い社員が多いテキパキとした効率の良い仕事が求められる環境に於いては、付いて行くのがやっとという様子だった。普通であれば、周囲の人間がかばったり、サポートをして成り立つのが職場というものであるはずが、そこは違った。若い社員数人が、その人を荒い言葉で罵倒し、嫌がらせをし、更に大人げないことに、その人の替え歌まで作って、なじり、虐めるのだった。大人の世界でこれほど陰湿な虐めがあることを初めて見せつけられてショックだった。
その定年間際の社員は、その虐めによって仕事中に手は震え、行動もどこかしら不自然なものになっていった。まるで自分を見ている様で辛かった。ましてや新人の僕にはとやかく言う資格もなく、黙ってその光景を見守るしかなかった。
それからしばらくして、その定年間際の社員が鬱となって、数ヶ月休職することが伝えられた。そしてそれが若い社員によるパワーハラスメントによるものではないかと話題に上ったが、すぐに立ち消えてしまった。結局、彼等の責任は問われないままなのだ。
そしてその定年間際の社員が復帰。ここで驚いたのは復帰したのはいいが、何と元の部署で、同じ仕事をさせるという。そこにはあの虐めた若い社員達がいるというのに・・・案の定、また陰湿な虐めが始まった。「お前、仮病だろ」と信じられない言葉を吐き、以前と変わらない態度で執拗に虐めた。何が気に入らないというのだろう、この若い社員には小さな子供もいる、どんな教育をしているのだろう。子供を育てる資格があるのか!そう問いたい気持ちで一杯だった。
そして、僕は耐えきれず、この件を文書にして上司に伝えた。文書にはこれまでの経緯。そして当該の虐めた社員への警告や処分。また鬱となった社員への謝罪と別部署への異動、会社ぐるみでのメンタル・ヘルス教育の実施と鬱への理解の徹底を呼びかけた。
このことから、鬱となった社員は別部署に異動となったが、虐めた社員へは何のお咎めも無く、メンタル・ヘルス教育の実施もないまま。さらに・・・その虐めは僕の方へと向かって来たのだ。仕事は取り上げられ、何をしに会社に行っているのか分からない状態が何日も続いた。
出勤し仕事に取りかかろうとすると
「君、それはやんなくていいから」
他の仕事を作って、またそれに取りかかろうとすれば
「それも、大丈夫。やんなくていいよ」
周囲はてきぱき働いているにも関わらず、仕事をさせてもらえないという、そういう村八分な虐めだった。
僕は、途方に暮れて社内を、ただ時間潰しに歩き回る日々が続いた。
そんな時、中学3年生の夏を思い出した。
夜逃げをして、ホームレスになったあの時期、ただ一日をやり過ごす為に、靴が擦り減るまで、街を彷徨い歩いた時のことを。
自分が滑稽に、そしてひどく惨めに思える瞬間だったけど、当然のことをしたのだという自負と自尊心は残っていた。
会社名をgoogleの検索にかけ、さらに「鬱」とスペースを空けて打ち込めば、多くの情報が出て来た。僕は唖然とした。一部ではこの会社は「鬱製造所」とまで揶揄される会社だったのだ。
僕はまた失意と絶望の中で仕事を辞めた・・・
つづく・・・

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