この「統合失調症」という病名を知ったのは、自分の半生を書こうと思い立った数年前、改めて母の病気についてあれやこれやと調べる過程においてであった。それまで母の病気について語る時は「精神分裂症」という名称を用いていた。
2002年6月に日本精神神経学会は「Schizophrenia(スキゾフレニア)」の訳語を「精神分裂症(病)」から「統合失調症」に変更することを決めたのだ。「精神分裂症」という病名の持つ重く暗い響きが、精神そのもの、ひいては人格全体が分裂しているとの誤解を招き、これが差別と社会的不利益を生み出す要因となるからだ。
「統合失調症」とはいかなる病気なのだろうか。
「精神分裂症(Schizophrenia)」という病名は1911年にスイス人医師のオイゲン・ブロイラー(Bleuler,E.)によって提唱されたものだ。歴史的にはドイツの精神医学者エミール・クレペリン(Kraepelin,E.)が内因性の精神病をその経過によって分類しようと試みたことに始まる。
双極的な感情が交互に表出する「躁鬱病」を一つの「疾患単位」とし、これと並ぶ形で、若くして発病しいずれ長期的には痴呆に至るという観察を元に「早発性痴呆(Dementia praecox)」という単位を設けた。ここで言う「痴呆(dementia)」とは「老人性痴呆」等のように、一度獲得された知能が後天的、器質的な障害によって失われるといった意味ではなく、あくまで人格構造の解体ということを意味している。
この「早発性痴呆(Dementia praecox)」という概念は、この名称通りに必ずしも若くして発症するものではないこと、その経緯が痴呆に至らないケースもあること、さらに「痴呆(dementia)」という誤解を生じ、混同され易い名称を含んでいること等から批判の対象となり、前述のブロイラーの提唱した「精神分裂症(病) Schizophrenia」に置き換えられることとなる。
それでは「統合失調症」の症状とはいかなるものだろうか
大きく分類して
1)陽性症状と2)陰性症状とに分けられる
1)陽性症状とは妄想、幻覚、思考障害、自我障害
2)陰性症状とは引きこもり、感情の平板化、無関心、、、等である
母は主にこれらでいうところの陽性症状を示していたが、買い物等以外の必要最低限の外出を避けていたり、感情的な不調和も見受けられたので陽性と陰性の複合的症状と言っていいだろうか。
特に顕著だったのが陽性症状の中でも幻聴だった。母の症状を物心付いた頃から目の当たりにして来た僕だが「精神分裂症」という病気を理解するにはまだ幼く、母が見せる奇行の数々に苛立ち、罵詈雑言を浴びせかけた記憶が今となっては忌々しく思う。
母はよく独り言ならぬ「独り会話」をしていた。「独り言」というのはあくまで自己完結である。「今日は天気がいいな」とか「さて、どこに出掛けようかな」「暑いな」とか、その時々の状況や感情、目的を言語化する行為だ。一方「独り会話」、そこには「問いかけ」があり「返答」もある、言わば「双方向」なのだ。一人で何役かをこなすのではなく、しっかりと自分を保ち自分の言葉で見えない誰かと「会話」をするのだ。
日中は比較的安定しているものの、深夜になると「独り会話」が始まる。まるで霊能者が見えない存在と対峙しているかのようだ。「うん、うん。そうね、いやそれは違うわ」「そうよ、だから言ったじゃない」僕は子供部屋で一人で寝るのは怖かったので、六畳間の和室で両親と寝ていた。父はいつも帰りが遅かったので、大抵一人で先に寝床に入っていた。そうすると隣の居間でそのような「独り会話」が聞こえて来るのだ。最初、電話で誰かと話しているものだと思った。ある日襖を開けて母の様子を見ると母は電話の受話器など握っていなかった。母は居間に座り虚空を見上げて一人佇んでいる。そして僕の存在にも気付かないで「独り会話」を続けるのだった。
「独り会話」の終盤には時折クライマックスが訪れる。会話の相手を蔑むように突然大声で笑い出す、そして時には大粒の涙を流すのだ。僕は布団の中でいつも考えていた。母の会話の相手が何者なのかを。その何者かが母を苦しめているのだろう、母をこんな風にしたのだろうと考えていた。
母の症状の一つに感情の不調和があると書いた。母は薬が効いている時はとても穏やかで朗らかな人だったのだが一度薬が切れて調子が悪い時は手が付けられず、外出先でもその症状の一端が垣間見れるのだった。
母と夕食の買い物に近所のスーパーに行く。一通り必要なものを選んだ後レジに並ぶ。そして自分の番が来る、すると突然すごい剣幕で怒り出すのだ。「貴方、私の顔を見て笑ったでしょ」そう言ってレジの店員を叱り飛ばすのだ。僕はその光景に唖然とし、次の瞬間恥ずかしさで一杯になり、母の服の裾を力一杯掴んで泣いた。母は買い物の代金をレジの店員に投げつけ、その場を立ち去った。帰り道、母は一言も口を開かなかった。
こんなこともあった。中学1年の頃の話。友達が部屋に遊びに来た。母は気を効かせておやつ代わりにバナナを持って来てくれた。友達は冗談で「そんなバナナ」と言った。すると母は「そんなバナナで悪かったわね」と言って、そのバナナを鷲掴みにして部屋を出て行った。それ以来「あいつの母ちゃんは頭がおかしい」と学校で言いふらされるようになるのだ。母には冗談は通じなかった。
その事件以来、友達を家に招待することはほとんどなくなった。恐らくそれが最後だったのではないか。以前別な友達が泊まりに来た時は例の「独り会話」を聞かれてしまったことがある。「電話をかけている」とごまかしたのだが、とても気まずい思いをした。
それから僕は小学校以来の不登校となる。
母は入退院を繰り返していた。退院して来た直後は、処方された薬も決められた通りに服用している様子でまったく普通の人と変わらなかった。これがずっと続けばどんなに良いだろうと思った。しかし数ヶ月もすると「私は病気なんかじゃないのに薬なんか飲む必要なんてないの」と言って次第に薬を服用するのを止めるのだ。そしてあの「独り会話」が毎夜聞こえて来ることになる。そしてさらに症状が進むと母は忽然と「消える」のだ。
朝起きると母の布団は蛻の殻。父は血相を変えて外に飛び出して行く。僕は母の布団を見つめながら不安に怯え、ただ座り込むだけだった。しばらくすると父が母を伴って帰って来た。その後ろには制服を来た警官が一人。どうやら家から少し離れた神社の鳥居の下にネグリジェ姿に裸足で座っているところを警察に保護されたようだ。母は虚ろな目をしている、まるで魂を抜かれたみたいだ。「お母さん、また入院だ」父は落胆した表情でそう言った。その日の午前中に母はまたあの精神病院へと帰って行った。
現在の「精神保健及び精神障害者福祉に関する法律」の第5章第2節で、精神障害者を入院させる場合は本人の同意に基づいてそれが行われるように努めなければならないとある。しかし一方、同第3節には「措置入院」という条項が盛り込まれている。これが所謂「強制入院」にあたる。その中身はこうだ。
<強制入院 >
患者本人の同意を必要としない入院形式である。
・医療保護入院
保護者の同意と精神保健指定医の診察を要件として、強制的に
入院する形式。くわえて知事への報告を要する。
・措置入院
自傷他害のおそれ(措置要件)のある精神障害者に対して、2名
以上の精神保健指定医の一致のもとに、都道府県 知事が強制的
に入院させるもの。
・緊急措置入院
自傷他害のおそれが著しく高い精神障害者を1名の精神保健指定
医の診察で強制的に入院させるもの。
・応急入院
急速を要する場合に、都道府県知事の指定する精神病院の管理
者が患者および保護者の同意なく強制的に入院で きる制度であ
る。
・仮入院
本人の同意を待たず、後見人・配偶者・親権者、その他の扶養義
務者の同意により、1週間を限度として入院させ ることができる
制度である。平成12年4月1日に廃止された。
・指定医による公的移送(34条)
僕自身、母が強制入院させられる光景を目撃している。母は次第に薬を飲まなくなり、先に書いたように突然いなくなり徘徊を繰り返すこともあれば、幻聴や幻覚によって正常な家庭生活が困難になる。父は幼い僕を自分の目の届かない間、母の手許に置いておくことを危惧したに違いない。かと言って母にはその自覚はないのだから本人の同意の元に入院に至るというのは難しくなる。幾度かは母の方から入院を希望したこともあったと後に父から聞いた。
父が掛り付けの精神病院に電話を入れると、すぐに担当者が来る。母は駄々をこねる子供のように柱にしがみついている。それを説得する病院担当者。父は母の腕を引っ張りながら「子供がかわいいなら病気を治してから戻って来い、、、」と涙を流している。埒があかないとみた病院担当者は二人掛かりで母を力ずくで柱から引き離し担ぎ上げる。母は暴れて必死で抵抗している。こんな光景が繰り広げられたのは僕が物心付いてから小学校の間まで。その度に僕は泣きじゃくりながらなす術も無くそれを見守るだけだった。幼心に父の追いつめられどうする事も出来ない心の内も理解しているし、母が乱暴に扱われるのを見るのもとても辛かった。
父は一時も心が休まる日はなかっただろうと思う。強制入院という方法に頼らなければ父に安堵が訪れなかったことも事実なのだ。
母は半年入院して1年自宅に帰って来るという繰り返しだった。父と二人でよく病院へ見舞いに行ったものだ。受付を済ませると担当医が父の元へやって来て、母の状態を報告する。担当医は白髪まじりのとても背の高い人だったと記憶している。父と少し話した後は決まって僕のところへとやって来て、頭を撫でながら「大きくなったね、お母さんはもうすぐおうちに帰れるからね」そう言うのだ。
入院直後は面会が出来ない場合もあり、症状が重いと4階だか5階だかの病室があるフロアに通され、落ち着いて来ると1階の広い面会室に通された。僕は病室のあるフロアに行くと人気者だった。そこは女性専用の病棟で、母と同じ症状の患者さんがたくさんいるのだ。まるで映画「17歳のカルテ」に出て来る病院の光景そのもの。その患者さん達が僕を取り囲んでお菓子を一杯くれるのだった。恐らく当時の僕と同じ年頃の子供がいるのだろう、中には僕の手を握って涙する人もいた。「良かったわね、息子さんが来てくれて」と他の患者さんや看護婦さんから声をかけられる母はまんざらでもなさそうに微笑んでいる。
大半は1階の面会室で母が好きな和菓子を父と共に3人で食べるのが面会時の恒例だった。母は僕に寄り添うように座り、ずっと手を握って離さなかった。取り留めない話をしているうちに面会時間はあっという間に過ぎ去り、またしばしの別れとなる。
時間になると看護婦さんが迎えにやってくる。「時間ですよ、病室に戻りましょうか」母は恨めしい顔で頷き看護婦さんに導かれて面会室を出て行く。僕はそれを追いかけて病室へ向かうエレベータの前まで急ぐ。母は振り返って「すぐ帰るからね、お父さんの言うこと聞くのよ」そう言う。エレベーターに乗り込み扉が閉まる瞬間、母の目から零れ落ちる涙を最後に見ることになる。それが数週間に1度の父との面会での光景なのだ。
母の病状が悪化の一途をたどるのは僕が小学校3年生くらいだったと思う。幻聴に幻視、徘徊、外出先での奇妙な行動は日常生活にも支障をきたし、それが父の手に負えなくなると精神病院の屈強な職員が数人やって来て、嫌がり抵抗する母親を、まるで拉致するかの如く抱え上げ強制入院させる。そして数ヶ月後に退院してくる母はまた次第に処方される薬を飲まなくなり、また同じ事を繰り返す。半年ごとのスパーンで、こうした状況が繰り返されるのだ。この光景を物心付いてからそれまでずっと見せつけられていた自らの胸の内を、今となっては微かな記憶の糸でしか辿れない。
小学校に入学する頃から、僕は気管支喘息の発作に苦しめられるようになっていた。喘鳴(ぜんめい)といわれる気管支の縮小で起こるヒューヒューと笛の音のような呼吸でよく父や母を夜中に目覚めさせ、係り付けの医者を夜中に叩き起こして診てもらったものだ。何しろ呼吸が出来ないので何度も死の淵を彷徨った。
喘息は先天的な要因によるものと後天的な作用によるものとに大別出来る。先天的というのは遺伝や特有の体質を持っているということなのだが、どうもこれだけではなくアレルゲンを含む生育環境や心理的負荷によるストレッサー(外刺激的因子)も体質以上に大きな要因の一つと考えられている。
自分の喘息の発症要因を考える時、この心理的ストレスというものが多分に影響していたと思わざるを得ない。中学1年で母親と生き別れることになるのだが、当時は体力的な成長の著しさと相まって、家庭的な問題が一応の決着をみて父子家庭になったものの一時的に安定したということもあり、この頃は喘息の発作は一度も起きなかった。しかし、父との放浪生活が始まると急に発作が再発した。
母親は僕を異常に溺愛していた。父親もそうだが、それ以上にもっと。結婚15年目、40歳にして生まれた待望の一人息子だから仕方がない。女の子が欲しかったらしくて、幼児期は髪にはリボン、服は女児向けのかわいらしいものを着せられていた。何でも買ってもらい、我が儘し放題だった。だけど、僕は半年の内で本当の母親に接することが出来るのはほんのわずかな間。時間が経てば母はその病気のせいで豹変し、別な人格になるのだ。あんなにかわいがってくれた母は僕と視線を合わせることも少なくなるし、会話も減り無関心になる。僕はそんな母を見て、ただただ困惑し、その空間にあの退院して来たばっかりの笑顔に溢れた優しい母の姿を探すのだった。母が手に届く場所にいるのに、それが母ではない異常な感覚が、まだ精神分裂症という病気を理解していない幼い僕にはあまりにも辛過ぎたのだ。
そんな環境に身を置き続けた僕は喘息の発作で学校を休み、完治した後にいつものようにランドセルを背負い登校しようとしたのだが、急に学校に行くのが怖くて自室で座り込んだまま動かなかった。小学校3年生、初めての登校拒否(不登校)だった。この日から僕と父は登校拒否と格闘することになる。
母は歌人でした。母の書いた短歌を図書館で必死に探すことがあります。
そうやって見つけた短歌の一つ。
『遥かなる山を越えればそこは川 川を超えれば吾が生まれたる古里』
恵子
昭和54年9月3日(月曜日)西日本新聞掲載
つづく・・・

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