『われは孤独である。われは自由である。われはわれみずからの王』カント
あの「倦怠感」と「眠気」はどこからやって来るのか、それは今ようやく経験を通して理解出来ても、当時は周囲や社会が押し付ける偏見によって「怠け」や「甘え」として処理され、一向に心にスポットが浴びせられることはなかった。あの「無気力」は「抵抗」なのであり、ある種の「自己実現」なのであり、心と魂の叫びでメッセージであることを、あの頃僕を取り巻いていた全ての人に知らせたい思いだ。
前回の章は、この様な一節で終わった。この思いは終始一貫している。引きこもりを経験していない人、幸いにも心を病む事無く、平穏無事に暮らしている人にとっては、引きこもるという行為は、「何も経験していない」ことに等しいと映るようだ。社会には楽しいことや、刺激的なことが待ち受けていて、様々なものが駆け足で移ろい、それを追いかけたり追い抜かされたり、その馬鹿げたレースに参加していないのは、まるで生きていないのと同列であるという傲慢で隔たった考え方の人は確実に存在するのだ。
引きこもるということは「何も経験していない」のではなく、「何も生み出していない」のでもなく「生きていない」のでもない。それが外的な作業なのか、内的な作業なのかという違いはあれども、自身の内宇宙で繰り広げられる様々な葛藤は、世俗的などんな経験よりも勝るのではないかとさえ思える。人は人生の中で一瞬足りとも非創造的でいることは許されない。どんな境遇であっても、その人なりの物語を紡いで、その人なりの創造物を形作っている。ということは「何も経験していない」なんて人はいないし、「何も生み出さない」人なんてのもないわけだ。
生きていることは、引きこもることも含めて、経験することだ。経験のない生は有り得ないし、生のない経験もない。
しかし、一旦引きこもった人が、社会復帰をするのは困難だ。また引きこもりをしている生活のベースがどうであるかにも関わって来る。親兄弟が裕福か、ある程度まともな生活をしている場合と、貧困家庭にいる場合だ。
僕はまさに後者だった。住み慣れた博多を追われ、飯塚に流れ着き、そしてその飯塚をも転々とし、最終的に辿り着いたのは北九州という土地だった。
最初は、住まいもなく、またホームレス同然の生活に戻っていた。父の知人が用立ててくれたお金で、サウナや温泉センターを仮の宿にしていたりもした。数週間そんな生活をした挙げ句、知人の伝手で部屋を借りる事が出来た。
ようやく落ち着いたかの様だったが、ここから1年がとても長く苦しかった。北九州は全国でも屈指の生活保護行政の厳しいところで、保護の申請を窓口で何度となく拒絶され、父共々疲弊していくばかりだった。
保護申請を受け付けない理由は、まさに僕の存在にあった。いい歳をして、年老いた父親がいるにも関わらず働こうとはしない怠け者の息子が同居しているからだった。飯塚に住んでいた頃も同じだったが、ここでもまた同様の眼差しで見られ、そして叱責され、怠け者扱いをされる、、、それがいたたまれなくて、でも逃げ場もない、針のむしろとはこのことだ。
唯一の救いは父が一言も引きこもりから抜けられない僕を責めなかったことだ。そればかりか、自分の年金や保護費を切り崩して、好きなアーティストのCDを買い与えてくれた。これは甘やかし?それも否めない。しかしそれ以上に、父の中にあって消えない、僕の人生の大事な時期を無下に奪ってしまったという罪悪感と後悔と、許しを請う気持ちの表れ、せめてものという思いだった気もする。
何度も役所の保護課に通い詰めて、ようやく保護は支給された。「空無の森7<飢えと自死>」で書いた、父と二人での飲まず食わずのサバイバルな8日間も、2度の自殺未遂もこの北九州でだった。
社会と隔絶して(一時期アルバイトをして活路を見出しつつあったが)既に9年が経とうとしていた。
年老いた父に物乞いまでさせた事実は僕に重くのしかかった。そして自力で食べて行くことの大事さ、やりたいと思う事がやれないのではなくて、やろうとしないだけで実はいつでも実現出来て、常に自分の選択待ちなのだという事実に気付いて行った。
お金はとにかくなかったから、いつも同じ様な服を着ているし、髪も自分で切っているもんだから、本当にださくて、変だったかもしれない。でも、当時から華やかなものや、洋服が好きだったし、自分なりのお洒落をしていたつもりだった。どうせ、仕事をするのなら、カッコ良く仕事がしたい!と今考えれば甘っちょろい考えで、ある古着屋の面接を受けた。
合格だった。働き始めると「俺ってなんでもっと早く、こんな職場で働き始めなかったんだろう」そう思える程、生活の何もかもが楽しかった。朝仕事の為に早起きすること、通勤の道のり、行き交う人々、交わす挨拶、そんな些細なことが、とても生きている実感を僕に植え付けてくれた。
働いていたお店は、店員のほとんどがミュージシャンで、しかも地元では名立たる人達ばかりで、数年後に音楽ファンの誰もが知る人物になった人も働いている様なところだった。この環境が僕には奇跡的な効果をもたらした。
就職して最初の月に、そのファッションビルの従業員の慰労を兼ねてパーティが開かれ、そこに出席していた時に素晴らしい出会いがあった。ある女の子が声をかけて来た。その女の子が後に一緒にバンドを結成するベーシストだったのだ。まるで一歩を踏み出したことを、祝う様に、そしてそれまでの労をねぎらうように、僕の足下にいくつものサプライズとキッカケを人生という粋な奴は振り蒔いてくれたのだ。
こうやって父と二人餓死を覚悟し、また2度も試みた自殺があったにも関わらず、数ヶ月も経たないで、仕事を見つけ、そして念願のバンドを結成させた。そしてさらに数ヶ月後には自分のバンドの初LIVEをカート・コバーン・トリビュート・ライヴという自分が主催したステージで踏み、300人の観客を集めることが出来た。
人生って、一歩踏み出すまでは、過去の自分とその歩みと思考の癖に囚われてしまいがちだけど、一旦歩を進めればこんなにも景色が変わるのだということを知った。
僕は後にこの古着屋の店長になることが出来た。そしてバンド活動も活発になって来た。そんなことよりも何より嬉しかったことは、稼ぎもそんなにないから立派なお店には連れて行けず、ファミリー・レストランだったけれど、父を自分の稼いだお金で食事に連れて行けたことだ。僕と父は、人目もはばからず、涙で顔をぐちゃぐちゃにしながら食事をしたのを今でも鮮明に覚えている。
これを最後の恩返しにするつもりなどなかったのに、父は逝ってしまった。
このすぐ後だった。
父は僕にとって、まるで幾多の大戦を共に戦って来たかの様な戦友であり、同志だった。父は僕を責める事などなかったが、僕は父に皮肉を言い、時には困らせ、我侭を言い、邪険に扱ったり、暴言を吐いた事もあった。それでも父は黙って、それを受け止めた。僕にしか分からない父があり、父にしか分かり様がない僕がある。
僕にとってはなくてはならぬ人であり、父が亡くなる時は自分も命を絶とうと決意していた。
父は貧しさ故か、不摂生が祟ったのか、脳血栓を患い、軽度の言語障害や手足の麻痺があり、歩くのもやっとで少し前から入院生活を送っていた。
見舞いに行く度に生気を失い、青白くなってか細い声になっていくのが分かり、狼狽する自分がいた。考えたくないせいか、僕は父が死ぬことなんてまったく想定していなかった。どこかでそんな現実から逃避していたのだろう。
ある日、携帯電話に父から留守電が入っていた。
「マー坊、まだ来ないのか?」・・・
父を想う傍らで、刺激的で楽しい毎日に埋没して行く自分がいた。
毎日でも行かなきゃいけないのに、見舞いに行く間隔が空いて行った。
それから、しばらく経って、見慣れない番号から電話が入っていた。
留守電が入っている。しかし、僕はその留守電を聞かなかった。
翌日になっても、何度もその番号から電話が入り、そして留守電もその度に更新される。
薄々、予想はしていた。きっと父が死んだであろうことを。
普通ならば、仕事もさておき駆け付けるのが当たり前。
それが息子、それが家族というもの。
僕は怖かったのだ。
父の死に直面したくなかった。
愛しているが故に。
そして僕は仕事を終えた夜。着信のあった番号に電話をかけた。
「何してたんですか!お父様は二日前に亡くなりました。至急病院まで来て下さい。お父様は霊安室にいらっしゃいます」
分かっていたこととはいえ、その声を聞いた時、携帯電話を握っている手が尋常じゃないくらいに震えて止らなかった。
電話を切り、一呼吸置いて、病院へ向かった。
霊安室へ通されると、そこに血の気のない父の姿があった。
もはや、涙さえ出ないほど、愕然とし、その場に座り込んだ。
結局「まだ来ないのか?」そう懇願する伝言メッセージが父の最後の言葉になってしまった。
酷い息子だ。父を1人で孤独に死なせてしまった。
死後二日後に会いに来る息子なんて、有り得ないだろ!
自分をそうやって責め続ける日々が、数年続いた。
「貧乏人は嫌だな・・・」
葬式さえあげられず、霊安室から火葬場に直行。
まるで流れ作業だ。父の死を悼む暇もなく、骨壺に小さく収まった父を抱いて自宅へ戻る道すがら、悔しさが溢れて来た。
生活保護受給者はまともな葬儀さえ、あげることを許されない。
せき立てられる様に、この世の中から消え灰となる。
父と対面し、亡骸にすがって語りかける暇さえなく、その姿を呆然と眺めたまま、朝が来て灰になる父を見送った。
当時付き合っていた彼女が父が骨壺に収まるまで、付き添っていてくれたのが救いだった。二人きりで、葬儀もなしの弔いだった。1人ならきっと耐えられなかっただろう。
生前から葬儀や戒名の無意味さを訴えていた父らしい去り方かもしれない。
「仏、ほっとけ」だったね。お父さん。お父さんがよく言ってたよ。
父は「死んだ人間のことは、早く忘れてしまうもんだ」そうも言っていた。
「忘却されるからこそ、往生出来るんだ、肉体の死だろ?そして残った人の記憶の中での死だ。この二つが伴ってこそ、本当に死んだということさ」
そんな父の言葉が忘れられない。
「貧乏人は嫌だ」そんなことを言ってしまったけど、今思えばこんな誇らしい人生はなく、絶望と悲喜交々の人生がどれだけの贈り物を僕にくれただろう。
貧乏人だったから、父との絆が深まったんだ。
親子の愛情を育み合えたんだ。そうだよね、お父さん。
父の死から10年以上。最後の父の声が留守電に残された携帯電話は、もう古くて使えないけど、僕は大切に持ち続けている。そこから父の声が今でも聞こえて来そうだから。
つづく・・・

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