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小森清貴 solo Album『カトレア』発売中 詳細

小森清貴 Twitter @kiyotakakomori
連絡先 kiyotakakomoriofficial@gmail.com
2015/3/18 | 投稿者: komori

年末からここ最近にかけてのピントカや壊れかけのライヴに、何度か、チリからエミリオというお客さんがきてくれていた。エミリオは向こうの所謂日本の音楽のマニアとでも言うような人物なのだろうか、ただ彼は日本語はおろか、英語もなかなかどうして怪しく、そうか、南米の公用語ってスペイン語なんだっけか… 

しかし彼はどちらかというと日本語要素の強い大森靖子や壊れかけの音楽を非常に楽しんでおり、先日壊れかけのベースメントでのライヴに来た際、「もうすぐチリに帰らなければならない」とわざわざ別れの挨拶を告げに来てくれた。嬉しかった。

勿論、音楽の享受の仕方というのは、ことばの意味だけではないから、僕らが洋楽を聴いて興奮したりするのと同様、エミリオが僕らの音楽を聴いて何かを受け取るということは容易に理解が出来るのだけど、だからといってやはり歌詞、ことばというものは蔑ろにされるべきものではなく、考えられ、書かれるべきものであって、すべての音楽がインストロメンタルではそれはそれで違うわけで、

このメッセージ以前でのことばの伝達現象というものをずっと考えている。

ガキの頃、洋楽なんて英語の意味が分からないからと聴いていなかったが、それでもあの日衝撃を受けたニルヴァーナの音は、ビートやラウドなサウンドは勿論だけど、圧倒的にうたである部分も大きかったと思う。

カートは何かを言っている。その何かは聞き取れず、意味もよくわからないが、なんとなく言ってることがわかる気持ちになる。わからないが、それだ!と思える。

バベルの塔の話があったが、元来人間の言語はひとつだったとも言う。或いは多分、言語はなかったのではないかとも思う。

ただ人間というものはその恐らくパッション的な部分で伝達をし合えてた原初の記憶というものを、今も忘れていないように思え、それを蘇らせる力が、我々の行っている「音楽」というものの中には、多分に含まれているように思います。

ということを、改めて、エミリオから教えられた気がしました。
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