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小森清貴 solo Album『カトレア』発売中 詳細

小森清貴 Twitter @kiyotakakomori
連絡先 kiyotakakomoriofficial@gmail.com
2013/9/25 | 投稿者: komori

とんと文章を書いていなかった。気付いたら台風も去り、外吹く風はすっかり秋の涼しさを帯びるようになってきていた。

先日はベースメントバーにズボンズのラストライヴを観に行って来た。未だにこの世界最強のロックンロールバンドのライヴを、もう二度と目の当たりにすることが出来ない、と思うと、実感が沸かない。まさかこんな日が訪れるとは思わなかった。いや、勿論生き物の生に終わりがある以上、バンドという生命体にも終焉は訪れるのだけれども…。ズボンズというバンドはもっと果ての果てまで僕らを導いてくれるものだと思っていた。それくらいに、自分の人生にとっての重大なバンドで、ロックバンドのあるべき姿をいつも提示してくれた、目標、指標、そのものだった。もう少し僕らが力をつけたその日に、また同じ舞台に立ちたかった。だけれども少しばかり遅かった。ブッチャーズの吉村さんが亡くなった時にも思った。ああ、自分は、遅すぎた。不甲斐無い程に。いつか、はいつの間にか未来の言葉から遠い過去を指す語へと変換されてしまう。

遠い未来にある「いつか」が過去へ追いやられる前に、もっと今に手繰り寄せなければいけないんだと思う。演奏行為とはある種のそういった瞬間の作業のようなものだ。そしてズボンズとはそういった瞬間の爆発の最高峰のライヴをしてくれるバンドだった。言わずもがな、この日の最後のライヴも、間違いなく最高のものだった。抽象的な未来も、化石と化した過去もなく、全ては瞬間に凝縮され、爆発し、それはまるで美しい花火のようなものであった。

だけれども、終わったからといって彼等は過去になったわけではない。残された音楽、例えば刻まれた音盤然り、あるいはそれが記憶であっても構わない、それらは継承され、どこかでまた新たな音楽の芽を息吹く種となる、現に正に自分がそういうものを受け取り、こうやって今音楽をやっているように。継承とは、過ぎ去りしものを再び現在に転化させる行為である。だからどんな過去のレコードも現在のものになり得る。きっと音楽はこれまでもずっとそうやって長い年月を生き続けて来た。これからもずっとそうだと、そうあるべきだと思う。それからのことは、僕らの、今現在活動をしているバンド、ミュージシャン達の、仕事だ。ズボンズが残してくれたものを、ずっと忘れない。

このライヴの前日にはimamonが解散ライヴ(これは自分達のライヴがあり行けなかった)、最近はテングインベンダーズが活動休止を発表した。同期とも呼ぶべき、同い年位のバンド達の解散や休止も、近年よく目にするようになってきた。悲しいことだが、無責任な言い方をするならば、人それぞれ、としか言いようがない。決断は、決断であり、尊重すべきことだ。偶々自分にはまだ続けなければならない理由がある。それもまた決断だ。

そして、彼等のこともまたズボンズと同様に、僕は忘れない。さようなら、じゃなく、ありがとう。それだけを伝えたいです。

また、いつか。
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2013/9/7 | 投稿者: komori

1週間くらい前に宮崎駿監督の「風立ちぬ」を観てから、ずっとあの映画のことについて考えている。僕はラスト30分くらいずっと号泣しっ放しだったんだけれども、そのことをツイッターに書き込んだら、友人から「どこで泣くんだ?」「あの映画には苛立ちを覚えた」などの意見が返って来た。どうやら世間的な評価としても、相当な賛否両論を巻き起こしているようだ。なるほど、だがしかし色んな感想が生まれるというのは作品の多角性の現れでいいことだと思うし、酷評する人がいるのもきっとそれはそれでよいことだろう、少なくとも自分はこれまで観たどんなジブリ映画より感動出来たわけで、その事実をもってして、それを与えてくれた作品に向き合えればと思う。酷評してる人の意見とは総じて主人公やヒロインに主観を投影し、「あんな生き方は許せない、解せない」「ヒロインが可愛そう」というストーリーを追った上での解釈があるようで、なるほど、そういう見方もあるものかと、作品というものをほぼストーリーを追わず鑑賞する性分が元来ある自分にとっては逆にそういった観点は新鮮であった。なるほど、なるほど。僕はどうも「ストーリー」ってのが苦手で、いつもアングルや構図であったり、音声であったり、という部分的な見方をしちゃうんだよね。だからラブストーリーとかに、ほんと疎い。

まあ、取りあえず人様のご意見は置いておき、僕の見方はこうだ。ああ、あの宮崎駿がこんなにも夢の「ない」作品を作ったのか、という、真っ白なカタルシス。あんまり筋を話すと未見の方へのネタばらしになってしまうからそこは割愛するけれど、最終的にあの映画は、クライマックスで誰も彼もが救われなかった。ストーリーというものを構成する劇中での人物の善悪の構図というものも、最終的に加害者も被害者も表裏一体のコインのようなものとなった。そういった意味で、あの映画は戦争映画では決してなかった。戦争に対し賛成も反対も、一度たりとも謳っていない。そういったポリティカルな部分には徹底して冷めている。はたまた、逃げているようにも思えた。そのことだけは、監督が貫いた「ファンタジー」であったようにも思う。逆説的なファンタジー。主義主張のない映画。何も語っていない。内容など、ない。そのことは徹底して「叫ばない」主人公に象徴されているようにも思える。あの主人公自身が、飛行機=メカ、機械 なのだ。だから、感情はない。あるのは状況の描写のみである。怒りも、喜びも、ないのだ、あの作品には。それをして「生きねば」とは、何たる皮肉であることか、と僕には聞こえた。

上記のような、監督が達した彼岸とも言うべき境地の、その余りにも迫り来る終幕感に、たまらなく自分は涙した、のかもしれない。しかし、涙の理由など、明確に把握は出来ない。言説は常に後付だ。ただ、とてつもなく漠然とした巨大な「終わり」が僕を襲ったことだけは確かとここに記しておきたい。

映画を観た翌日だったかた、監督引退のニュースが世間を震撼させた。だが、なんとなく理解できる気もした。あの作品は、きっと、遺書だったのだ。監督は自らが作りあげてきたファンタジーの息の根を、最後に、自ら止めたのだ。

「世界がギシギシ音を立てて変化している時代に、今までと同じファンタジーを作り続けるのはもはや無理があると思った」

という監督のことばの重さよ。

だけれども、ならばこの先の未来、アニメーターは、映画監督は、漫画家は、小説家は、脚本家は、音楽家は・・・、なにを描けばよいのでしょう。
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