壊れかけのテープレコーダーズ Official Web Site
http://kowarekake.com/

小森清貴 solo Album『カトレア』発売中 詳細

小森清貴 Twitter @kiyotakakomori
連絡先 kiyotakakomoriofficial@gmail.com
2012/6/28 | 投稿者: komori


壊れかけのテープレコーダーズ「街の灯」at 新宿Motion 2012.6.12

※以下radioDTM HPより抜粋

radioDTMの映像部門、
videoDTMが送る新プロジェクト

videoDTM:LIVE

vdeoDTM:PROで、全作品の監督を務めている佐藤敬監修のもと、
ただのライブ映像ではなく、演出や効果を加え、一つ上のライブ映像作品に仕上がっています。
そんな新プロジェクト、第1弾アーティストは
壊れかけのテープレコーダーズ。
先日3rdアルバム「ハレルヤ」をリリースしたばかりの壊れかけのテープレコーダーズ。
その新作から「街の灯」です。
では、ご覧ください。


壊れかけのテープレコーダーズ
「街の灯」2012年6月12日 @新宿Motion
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2012/6/28 | 投稿者: komori

昨日のピンクトカレフライヴを終えて、今月の自身のライヴの全工程が終了したわけで、壊れかけではツアーにも行ったし、この6月のライヴを振り返って、という趣旨の内容を書きたかったのだが、別のことを書くことにした。それは昨日トカレフをやっていたベースメントバーの隣、スリーでの、太平洋不知火楽団のライヴを観ていて、思ったこと。

いや、それは太平洋不知火楽団、という固有名詞で包括できるものとは、明らかに異質な、あくまでこれは個人的な、主観的な、感覚、そう、身体的な痛みがどうしたって他者が介入出来ぬ領域での現象であるように、例えば、お腹が痛い、という、そのことは伝わるが、お腹のこの痛さは、どうやったって伝達も伝承も、不可能なのだという(想像も思いやりも言語によって構築される)、そういう感覚のもと、書くから、この文章は伝達され得ぬ、という自覚のもと、僕は今書いている。

昨日、演奏していた彼等を僕は知っている、「太平洋不知火楽団」という、とても好きなバンドだ、笹口さん、大内君、津金君、その名前も顔も、よく知っている。そんな彼等が3人で音を発している。弦が振動し、その振動がアンプリファイされ、マイクで拾い、スピーカーでより拡張される。太鼓の振動もまた同様に。

昨日ふと気付いてしまったことは、音楽は、言うなればただそれだけの、音の物理的現象であるということに気付いてしまった。しばらく目を閉じ、耳を傾け、身体を揺らしていた。再び目を開けた時、そこには名前も顔も存在しなかった。よく知っている彼等の。いや、僕が何を果たして「知っている」?

外因的な負荷がかかることにより振動する弦や太鼓の音の拡張というその現象、その事実のもとで、余りにも名前や顔、という事柄は、即ち個人という事柄は、後天的なものだった。そういった領域から、もっとずっと遠い所で、振動という現象があり、その事実に、僕は立ち竦んでいた、それだけだった。

ふと、そういうことに気付いてしまった。

という報告でした。

※上記文章は何も「太平洋不知火楽団」に関しての批評ではないので、そこは勘違いしないで下さいね。寧ろ、昨日のライヴに関しては、僕は彼等に最大限の賛美を贈りたい!後半のノンMCでの緊迫感ある流れは圧巻の一言。7/16大阪レコ発、彼等を招いて良かった。
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2012/6/23 | 投稿者: komori

久しぶりに歌詞がひとつ、書けた。
どういう形態で具現化されるかは未定にしても、
久しく味わってなかったこの達成感、と、
同時に、完成してしまった、ということに対する喪失感。

そう、完成とは同時に喪失なのです。

そこで、心にまたポッカリ穴が空いてしまうから、
また新たな曲を生み出したくなるのかも、しれません。

ところで、歌詞ってものは、僕にとっては、手紙、ないし、ラブレターのようなものであります、ということに、今日ふと気がついた。

歌詞をよく「日記」と捉え、日記を書くように歌詞を綴る人もようだけれども、僕はそういうタイプじゃないかなあ。

少なくとも、日記程パーソナルにはなり得ないというか、やっぱり伝達の矛先を想定するんだよね、それは勿論好きなものや、好きなひと、じゃない場合だって大いにあるよ、だって好きと嫌いはベクトルは真逆でも「想い」の強度の観点からしたら、きっと同じだろうからね。

「想い」っていうもんは実はとても尊大で、だけどね、余りにもアバウト過ぎて、想い、想い、言ったて、重い、だけなんですよね、だから僕等は必殺のきめ台詞をさ、ことばを、手繰り寄せようとするわけでしょう。知っているんだよ、みんな、そのことばにこの想いの丈は収まりきらないことなんて、いや、そうでもないのかな、そうでもないのかもな、でも僕はそういう苦悩のないうたは興味ないです、どうでもよいのですが、だからと言って僕等は「ことばにならない」なんて安易に言えぬわけですよ、少なくともうたをうたう人間ならね、あれは愚かの極みのような発想だと思います。ことばにならない、ってのはさ。

ラブレターを書くとして、この想いはことばにならない、じゃ、いや、そりゃそうかもしれんけど、格好つかんでしょ?それっぽい文句を探すでしょ?そうやって慎重に、大いに苦悩して、破り捨てながら、抽出されたことばは、多分、最終的には、非情に無様だと思うんですよ。装飾を剥いでったら、必然的にそういうもんが残るからね。

でも、恋をするってのはそういう作業でしょう?僕はラブレターを書くように歌詞を書いていきたいです。世界に恋していたい。そして、愛情は同時に「そうではない」ものを孕むから、そう、同じくらいの憎しみ、怒りも、持ち合わせていたい。好きなひと、好きなもの、好きなこと、以外は、この世から消えてしまえという、実に幼稚な、だけど真意をついた発想ですよ。

でも、手紙って良いよね。手紙なんて、普段、最早書かんけどさ。皆さんはどうでしょうか?ラブレターの封筒を空けるとき、ドキドキしたでしょう?もしくはラブレターを綴り好きなあの子の下駄箱に入れる時。いや、実際僕は下駄箱はやらんかった、と思う。貸したCDの歌詞カードに挟む、は、やったが。

よく書籍化されてたりする、芸術家や哲学者の、往復書簡、あれが好きなんですよ。手紙のやり取りだよ。それが、すっごく、ガチの著作や作品にも勝って、雄弁で、すべてを物語ってるようにも、思えるのです。

そういううたを、うたえればな、
と僕は思います。



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2012/6/21 | 投稿者: komori

いよいよ、このブログの存在意義が分からなくなってきてしまった。

ツイッターというツールを用い始めて以降、ある程度の宣伝効力、また思惟的な部分を抽出してみても、案外140字の連鎖なりで、それなりの伝達は可能なわけで、また時代がそちらの方にパラダイムシフトしているというのは自明のことで、確かに、個人的に楽しみに観覧してたいくつかのミュージシャンのブログも閉鎖、または停滞気味になっている事実は拭い切れず、

そうこうしている内に、自分もまたこうして滞り気味になってしまうことに、誰に強いられたわけでもない、自尊心以外の何物でもない、だけれども沈静の打開策を見出せずには入られぬ、苛立ちやジレンマが募る。

情報、のみなら、今やツイッターの方が速度、効力共に勝るし、情報の部分に関しては、もう一個の、オフィシャルブログ「壊れかけのテープレコーダーズ 最新情報」に掲載はしている訳で、今や、そうするとこの場の活用性とは何たるものか、と自問せずにはいられないのです。

だけど、ひとつ確信を持って言えることは、僕はことばを見つけたかった、見つけたい、手繰り寄せたいと思っている、その為には140字ではまかないきれない、文の連なり=思索の具現化の作業が必要なわけで、とにかく僕は、感覚や感性、そういう数値還元出来ぬ曖昧さの全てを、取り合えずまずはことばの秤にかけたいと思っている、

がための、このブログの存在と言えば、冒頭の問いの解になるのかな。

日記を書く、それのみでも良いのだろうが、だが果たして日を記す、と字面に沿って、この手に掴める確固たるその日が、どれだけあろうか、とも思うし、

いや、あるんだよ、間違いなく、そういう日は、瞬間は、だけどそれは、例えば音楽に似ていて、認識したその瞬間には、一切が拭いきれぬものだから、

だから、どうにもこうにも、って具合なんです。

その為には、ことばを吐き出すしかないよね。
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2012/6/12 | 投稿者: komori

随分とまあこうして、時間だけが無常にも経過してしまったものだ。

「ハレルヤ」発売から早1週間。

このブログが放置状態になってしまったのは、そう、ことばは毎夜手繰り寄せようとはしていた、Word5ページ分にも及ぶ自分なりの「ハレルヤ」の考察の下書きもある程だ、だがそれらは結局考察であって下書きに過ぎなかった、あの時盤に刻まれた音は、そう容易く考察され、ことばが選別を受けるような、下書きを要するものではなかったのだ!

と、そうこうしているうちに時間だけが経過してしまったわけだが、

時間はまだまだかかるものなのだろう、この作品を知るには、それ相応の時間を、要してきたはずだ、この日まで、だから、あなた達はより多くの時間を要しなければならないのだと思う、現出する作品とは他者であり、自己との完全なる同調等というものは、傲慢な主観性の妄想に過ぎない、自分自身にとってですら、この作品は他者なのだ。そしてその他者とは、遠い存在だ。遠くて然るべきなのだ。

現代社会は、あまりにも他者の接近を錯覚させるようなものが多すぎる。それが故、自己との同調の錯覚が生じ、結果的にそれらはまやかしであることを知るが為、その軋みに耐え切れず発せられてしまう、破壊や暴力。

だが、当たり前に、仮に僕等が想いを近づけないのなら、すべては遠く、僕等は誰しもが孤独であり、誰とも、何も、分かち合うことも、分かり合うことも、不可能なのだ。それは最早業と呼ぶしかない。

しかし、僕等は同時に、想像力や思いやりの力を併せ持つ。それらを駆使し、知る、ということが出来る。知る、とうことは接近である。対象と僕等との距離を縮め、何ならば、一時的に自分自身を投影してみるってのもいいかもしれない、そういった観察と実験を繰り返す内に、相手に想いを馳せることによって受ける情念が、対象を捉える筈だった自己をもはやそれ以前のものとは違う自己足らしめる、そうしてまた対象に向き合う、この無限の循環作用が、僕等が知り得る、世界そのものだ。

(これは決して対象と自己という二元論的な発想ではなく、そういった二項対立を超えるもっと大きな力についての、持論です。それが想像力であり、思いやりであり、またの名を音楽であると僕は思っています)

だから、「ハレルヤ」を手に取った方々は、願わくば、この作品に対し、大いに想像力を巡らせ、想いを近づけて欲しい。僕等自身も、そうするだろう。「ハレルヤ」は壊れかけのテープレコーダーズというバンドの化身、ですら最早ない。最早、作った、とも言い切れぬ、
あらかじめそこに存在していたが僕等がたった今知り得た、別個の宇宙のような、まあ、そんなところとでも言おうか。こうした別個の宇宙が、今尚無数に点在している。

それらはまた僕に想像力をもたらしてくれるだろう。
だから続けているのかもしれない。

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