私は彼から何も得られていません。そして彼も私から何も得られていません。だから彼は私の友人であり私は彼の友人なのです。
お互いに何も得られないからこそ友人なのです。そして友情とは、友達のいない人たち(必要のない人たち)によってのみ、はぐくまれるものなのです。
ロックは友達のいない人たちのための音楽です。自分は何だか孤独だ。人間の輪の中に入っていけない。怖い。他人が。だからロックする。つまりぐれる。反抗的な態度をして他人と関わろうとする。それがロックのコミュニケーションの仕方。圧倒的な魂の孤独とそれによる不安や恐怖、そしてそれでも、せめて一人くらいは自分のことを真に理解してくれる人がいるはずだという、淡い期待があるからこそ、その人はロックしてしまうのです。でなければ彼はとっくに死んでしまっているのでしょう
僕は凡庸な結論について言いたくない。だから僕の文章から僕の断念を、語るのを断念したことを読み取って欲しい。
刺激し合うことが友人の証しなのではない。魂の共鳴が証しなのである。だから友人なんてものは、理屈でどうにかなるものではないのだ。
僕は常日頃、自分は他人に対して何もしてあげられない無力な存在であることを、心底自覚して生きている。放棄したのではない。僕はたぶん乞食のような人間、というより乞食なのだ。本当に何もできない。
だから私はどれだけ他人を苦しめられるのかによって、他人に対して何かできていることを実感しようとするのである。
人間の関係は良性のもののみで構成されているのではない。悪性のものの支えを受けて関係が作られてもいるのである。
まず気に入らない他人を一人ずつ血祭りにあげていくことが重要です。道徳を肯定する人間がいるなら、反道徳を肯定する人間もいます。殺人を肯定する人間もいるのです。そして人間はみんな死んでしまえと考えるのも、正当なことです。
あなたは正しい。ただそれが受け入れられないだけなのです。あなたは間違っている、ではなく、あなたの言うことを私は到底受け入れることはできない、が正解です。つまり正しさの対立なのです。
正しさの対立とは、異なる肯定的事実が両立していることを言います。そしてどちらか一方が真か偽かとは、ここでは言えません。ただそれを拒絶するかしないかなのです。拒絶された肯定的事実は消滅していませんので、残っています。それを私はただ忘れているだけなのです。

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