『心のノート』は逐一読んでいくと、「問題点はいっぱいある」、とおそらく多くの人が指摘するであろう。いま手元にある団体が作った『心のノート』を批判した文書がある(まだどこの団体かは公表しない。僕のメモが一定のかたちとなって世に出すときに明示しよう。なぜなら、足下から制限を受けたくないので)。例えば「自由と権利」の視点からみれば、権利は義務を条件としてしか扱われていない、といった批判である。そうして子の『心のノート』は教材としてよろしくない、という批判だ。しかし、それはおかしい。教材としてよい教材とはどういう教材なのだろうか。完璧に正しい(と思う)教材があるとしたら、それはそのことにおいて子どもたちに教師が正しいと信ずる価値観を教え込むという使い方しかできないものになってしまう。『心のノート』はいろいろな側面から問題の多い教材が盛り込まれている。『心のノート』の内容に問題が多ければ多いほど、道徳の教材として活用の価値は高いと考えなければならない。そのことは大いに喜ぶべきことであったのだ。しかし、教材によっては「使いやすい」という意見もよく聞く。多くは批判力に乏しい人の声だ。今のところ、批判することじたい考えたことのない人々に批判力をつけてもらうためにもそれはいいことだ。
例えば小学校1・2年用に「うそなんかつくもんか」という教材がある。前述の批判文書には「「うそはいけない」は常套句。うそをついていると心がすっきりしないという経験は誰でもあるはずだ。子どもは明るくなければ、という決め付けの中では子どもは本当の気持ちは飲み込んでしまうだろう。そして、…略… 内心の自由は、子どもに保障されている権利である。子どもの権利条約の発想は抜け落ちている。」と酷評している。だからダメなのだ。学習指導要領では「1 主として自分自身に関すること。」の中の「(4) うそをついたりごまかしをしたりしないで,素直に伸び伸びと生活する。」で扱う教材だ。この内容を深めていくことが大切なのだ。「うそをついてはいけない」というのは正しい。但し、「うそをつかなければならない」「うそをついてしまった」というような人間の行為を問題にするのは応用問題なのである。そして人間の現実的な課題は応用問題の中にある。この教材から子どもたちは大きなことをたくさん学べる。人間はうそをついてはいけないが、うそをついて悔やむ人間もいればうそをつかないと生きていけないときもある。「うそは方便」という別の常套句もある。うそをついてしまって悩んでいる子もいればほんとうのことを言ったばかりに人を傷つけた子もいる。かつ、うそと詐欺とのちがいとか、うそをついても告白しなくていい自由だとか、それこそ子どもの権利条約もこうした子どもの権利が疎外されようと言う事例の中で意味がわかるというものだ。そして安易に「そういう自分は「きらいです」と書き込もうとした人間にオレオレ詐欺とか、振り込め詐欺に安易に引っかからないような犯罪から身を守る基本まで教えられるのだ。「簡単にサインをしてはいけません」というのは蓋し名言だ。殊に『心のノート』に書き込むときには詐欺にひっかからない、カルト集団に引きずり込まれない恰好の練習台となる。
事例検証が長すぎた。つづく

0