去る5月11日に福教組嘉飯山支部で心のノートのシンポジウムをやった。その時に話したこと。
今回は「心のノートしたたか手引書」の試行的デビュー。これまでA−ペコさんと考えてきた試作品を提示してみた。
教材は「心のノート」小学校5・6年用の17頁以降の「自由」についてである。
まず「心のノート」の手法は「自由は自分勝手ではない」とか、「自由であることは楽ではない」というところから入る。それは「自由」の本質に入らずに制限、規制、逸脱行為ないしは例外から入る手法と言っていい。わかりやすく言えば「まず制限を与えることで抑えつける人間支配の手法」である。かつて体罰事件で新聞をにぎわせた某中学校の校長は最初の朝礼の時に前にいる生徒を足蹴にすることでその後の生徒全体の服従を強いたという。生徒を無条件に従わせるには失敗の少ない方法だ。暴力団の方々はよくそういう手を使うし、かつての植民地での日本軍人もそういうやり方をして力を誇示したという。最初にこういう入り方をすることで「自由」の本質ではなく「自由」とは面倒なものであるということを教え込むことで「自由」の本質から目をそらすようにしている。
次いで頁を繰ると「責任」とか「規律」が強調される。これは「自由」にともなう「負担」や「リスク」を示すことで行動規制をする手法である。暴力団が「この街を歩くのは勝手だが、歩けるものならあるいてごらん」と脅すやり方と同じである。株などの投資をするときに「リスクはお客様の責任です」と説明があるのと同じで、売り手の責任回避と自己責任の押しつけである。「自由」を享受するのにはかなりのリスクが伴うよという脅し以外の何者でもない。
そしてようやく「自由とは あなたを あなたらしく かがやかせてくれるもの」と言って「自由」を示されてもそこにある「自由」にはもはや何の魅力もない、色褪せたものになっているのだ。要は「自由」なんて責任やら負担やらがまとわりつく面倒なものだ。だからそんな「自由」なんてものに神経を使うくらいなら従順な奴隷になって、奴隷の安寧を以て幸福と考える人間になろう、という気になってしまう。それが「心のノート」の狙いなのだ。
しかし、こういう論の進め方って教員はよくやっているよね。「自由と自分勝手は違う」って子どもに言ったことのない人って少ないと思うよ。まずは櫂よりはじめよ。教師自身のものの見方から変えなくてはならないのだ。
ではどうするべきか。簡単なことだ。私たちが「自由」を教える目的を第一に考え、そこに向けて授業の流れを組み立てるのだ。「自由」の単元ではまず絶対的自由のすばらしさを教えるべきなのだ。そして不自由とは何か、不自由の中でどれだけ人間は人間らしさを奪われてきたのかを歴史的体験から学ぶべきなのだ。
「責任」は「自由」を制限する「責任」ではない。憲法第12条に言う「責任」は公共の福祉に行使する責任を言っている。「公共の福祉」とはわかりやすく言えば、「みんなのためによいことをする」である。「公共の福祉」を公に尽くすことだとか、滅私奉公と勘違いしている人がかなり多い。大多数といってもよい。つまりここでは戦争に反対するとか、平和を守るとか、市長や議員を選ぶとかいうようなことを行う自由のことを言っているのだ。そのように自由を使う責任があるということなのだ。くれぐれも勘違いしないように。教師が勘違いしたらすべておじゃんなのだ。こうした発想そのものは最初に擦り込まれたらなかなか抜けない信念になってしまう。だから最初が肝腎だ。

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