今日(27日)は教育総研の「心のノート」研究会でした。10時からだったけれど、昨日の福岡県人権研究所の臨時運営委員会での辛い時間が気力を奪い取ってしまったので朝は出遅れてしまいました。 それはさておき、研究会では「心のノート」は正しい使い方をすべきではないか、という方向になりました。
ということで。うむ。特設道徳教育は1958年に「学校教育法施行規則の一部を改正する省令」によって設置された。以後、学習指導要領に何をするべきかがきちんと盛り込まれている。しかし、文部省の教育政策に反対する人々(日教組や進歩的教育学者と自称する人たちなんか)はこれを黙殺してきた。すなわち学習指導要領を無視して、訳のわからない道徳教育を勝手にやってお茶を濁してきたし、人権教育などで代替することもしてきた。問題は国=文部省(文科省)はそれなりに道徳教育の目標も体系も組み立ててきた。ところが批判勢力には対抗すべき道徳教育観を持とうとしなかった。いや、何らかの道徳教育観を持つことを罪とか、恥とか思ってきたのだろう。殊に国=文部省(文科省)が問題としてきたのは愛国心である。愛国心というのは国=文部省(文科省)の国家観が底流にある。これに対して批判勢力の人々は自らの国家観さえ持とうとしなかった。この怠慢は大きなツケとして今手元にある。
国家=悪として捉えれば、国家が出てきたとき反対すればすべて事は済む。じゃあ自分はアナキストなのか。そう自問した人はどれだけいるのだろう。アナキストであると思想的に政治的に責任を持つのならば教師という公務員になったり、野口みずきの疾走に声援を送ったり、ワールドカップに驚喜したりしてはいけないし、日本語以外の言語に熟達していないというのも問題だ(つくまり、民族言語と言ってもいい日本語に守られた文化世界=政治的には国家から出ようとしない体質を示しているダロ)。
そういう逃避的反国家主義者ではもういられない。だって子どもたちに説明ができないだろう。日本という国家が戦争を起こし、アジア諸国を侵略したのだと教え、だから日本国を否定するという一方で、韓国の文化はすばらしい、とか、チマ・チョゴリはきれいだとか言ったところで、何を子どもたちに伝えているのだろうか。日本の民族主義は毛嫌いしているのに他の国の民族自決とか独立運動とかには肩入れするのはどうしてだろうか。
僕は別にニッポン大好きナショナリストになれと言っているのではない。この国ときちんと向き合うことが必要なのではないかと言っているのだ。「心のノート」は無条件に国家に追従する愛国心を求めている。それならば私たちはどういう方針で日本という国家について子どもたちに教えようと言うのか。方針なしに反国家主義のみを教え、他国の民族主義や国家主義は賞賛するという姿勢ではいくばくかの思想を持った右翼から売国奴と呼ばれてもしかたない。そして売国奴であると認めることは教育公務員である自己否定をすることでもある。獅子身中の虫として闘うなどときれい事は言えない。たった一人で展望のない闘いを獅子身中の虫としてするというのは所詮ポーズに過ぎない。革命の展望くらい示さないと信用されないであろう。
長くなったので続きはまたあとで。

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